古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
たくさんの業績や研究、知見があり、この記事は開物個人の古代妄想レベル★★ということでご理解いただきたい。
清張さんが言うところの「点」の考察です。
明日香の石舞台。方墳(四角の古墳)。石室が露出したもの。馬子の墓と墳墓と言われるが確実な証拠はない。
そもそも蘇我(そが)氏は存在したのか?
武内宿禰(たけしのうちのすくね、たけのうちのすくね)というスーパー大臣直系の豪族とされている。
この大臣、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代、実に約280年も記紀(古事記、日本書紀)の忠臣として登場し続けた人物。
360年も生きたという話まである。まぁその辺にもツッコミたくなるが。
蘇我氏についてはさらに怪しい所がある。
他に直系とされる紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏にはそのような姓が多いコミュニティなり、地名があったりして、おおよそ往時の活動が古代史とともに類推できるが、蘇我氏にはない。
今では誰それ?どこの人?状態
(私のリサーチ不足ならご指摘ください。北陸や千葉に多い蘇我さんや蘇我の地名は、この蘇我氏とは関係ないと思う)
蘇我氏の系譜の中で、歴史上、よい意味と悪い意味で、脚光を浴びたのが次の三代。
蘇我馬子(そがのうまこ)
蘇我蝦夷(そがのえみし)
蘇我入鹿(そがのいるか)
見事に「馬」で始まり「鹿」で終わる
馬子は、厩戸皇子(聖徳太子)と連合して物部氏を滅ぼし、いきなり、権力を掌握(丁未ていびの乱、587)
入鹿は、大恩あるはずの太子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)ら上宮王家を滅ぼすという非道の果て、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)に暗殺され、あっという間に、滅亡(乙巳おつしの変、645)
歴史が苦手な人向けに一言でいってしまうと、
蘇我氏は歴史書の中でだけ、突然現れ、突然消えた氏族
ということになる。
子孫はいない、遺跡遺構も「確実な」ものは何も残っていない上に「馬」と「鹿」だ。
飛鳥の石舞台は馬子の古墳跡と言われているが、口碑(言い伝え)で決定的な証拠が出たわけではない。
このことに気付いたとたん、一時、スランプに陥った。
それにしてもだ。古事記の作者は万葉の達人、太安万侶(おおのやすまろ)。日本書紀の編纂にもかかわっていただろう。
プロ中のプロの編集者の才能が、素人がわかるような
「落書き」みたいなものを残すだろうか?いや、だからこそ残せたのか?
古代の著名人物で、動物名で呼ばれるのは馬子と入鹿の二人だけだ。
蝦夷(えみし)にいたっては、当時は「まつろわぬ者」の代名詞であるはずで、高位者の名前としてはまったくふさわしくない。
安万侶さんが、
ヒントは出したぞ、後は自分で考えてみ
とダヴィンチコードを残してくれているような気がした。
私は歴史から抹消されたという点で、
蘇我氏すなわち物部氏(もののべし)ではないかと推理している
物部氏は今も子孫が居られるぐらい。当時で既に1000年近く続いた血筋で、もちろん眷属も多かったはずだ。
産業(ウォータフロント)、土木(山部)、水上運輸(海部)など、部民(べのたみ)をながらく掌握していた。
当時の大和朝廷(奈良朝)としては、政権運営上、物部氏をダイレクトに罵倒するリスクは犯したくない。
しかし自分たちの権力の正統性を主張するには悪役が必要だ。
そういった熟考の末に、蘇我氏という架空のヒール(悪役)を編み出したのではと疑っている。
ただし、架空だけに、変に残しておくと正史の辻褄が合わなくなる。それで消し去ったという見立てだ。
傍系・子孫の名ぐらいは、時の権力であれば、ちょっとした人事工作で作れたはず。
(蘇我倉山田石川麻呂。後に彼も中大兄皇子と中臣鎌足に自害させれられたことになっている)
この妄想にはひとつ良い点がある。
乙巳の変で、中大兄皇子は人を殺めていなかったということ。ね?コナン君。。。さてどうかな?(コナン)
5月29日追記
飛鳥寺そばにある蘇我入鹿の首塚について。地元では中世の頃の尼さんのお墓と言われている。五輪の塔は元々二つあったそうだ。そもそも五輪の塔は飛鳥時代にはなかった。数少ない蘇我氏の遺跡とされていたが。
入鹿の存在も怪しくなってきた。
蘇我氏の邸宅があったとされる甘樫丘から北を見る。奈良市、京都の方向。左・畝傍山、右・耳成山。
■丁未(ていび)の乱